デレク・ジャーマン『ヴィトゲンシュタイン』

映画『ヴィトゲンシュタイン』をDVDで観る。

ウィトゲンシュタインの生涯と思想を『論理哲学論考』並みのミニマルさで描こうとする試みに驚く。

下手な再現ドラマではなく、不要な装飾を排除したからこそ、人と言葉が浮き上がる。

残ったのは、余韻というより、ざらつき。

この先、何度も観るだろう。

ただし、そのミニマルさゆえ、背景の理解には最低限の知識があるに越したことはない。

丘沢静也訳『論理哲学論考』光文社古典新訳文庫に収録されている野家啓一「高校生のための『論考』出前講義」と、古田徹也『はじめてのウィトゲンシュタイン』がとても役立った。

哲学書は、少なくとも「わたし」のために書かれてはいない。入門書・解説書はとても大切だとあらためて感じた。

柳父章『日本語をどう書くか』

柳父章『日本語をどう書くか』を再読。

話し言葉の語感や言語感覚を書き言葉に生かすという視点を改めて学ぶ。

小林秀雄 『私の人生観』で常体と敬体の混用が文章に流れをつくっているという指摘は、初読の2年前には気付かなかった。

一冊の本を繰り返し読むのは、新鮮な発見があり、本当に役に立つ。

「再読に値しない書物は、そもそも読む意味がない」

杉本圭司『小林秀雄 最後の音楽会』

杉本圭司『小林秀雄 最後の音楽会』を読む。

学生たちの前で小林秀雄 、小林秀雄とその名を連呼するほど私淑している筆者が、自らの音楽の素養を出発点に、『モオツァルト』の他には語り得なかった小林秀雄の音楽観を紐解く。

「無私ヲ得ントスル道」を体現したのは、小林秀雄ではなく筆者ではなかったか。

そして「批評は原文を熟読し沈黙するに極まる」を実践したのも、筆者ではなかったか。

小林秀雄に対する批評や評伝は相当な数にのぼっていて、すべてを読みこなすことはできないけれど、本書は若松英輔『小林秀雄 美しい花』と並ぶと思う。

中村昇『小林秀雄とウィトゲンシュタイン』

中村昇『小林秀雄とウィトゲンシュタイン』(春風社)を読む。

もとはデリダとウィトゲンシュタインの比較に後から小林秀雄が入り込んできた、という筆者の述懐どおり、書名にある二人の結びつきは薄く感じる。

一読しただけでは消化不良がある。これから何回も読み返すだろう。

少なくとも哲学書は、私のために書かれていない。

さらに、この『小林秀雄とウィトゲンシュタイン』、装丁がとても素敵。カバーがパラフィン紙(?)で透けていて、モノクロームの写真が幻想性を高めている。

品切重版未定のところを、出版社に探してもらい、改装されたものを購入した。

大切に、しかも何度でも読み直したい。

春風社さん、ありがとう。

フランチェスカ・ビアゼットン 『美しい痕跡 手書きへの讃歌』

フランチェスカ・ビアゼットン 『美しい痕跡 手書きへの讃歌』(みすず書房)を再読する。

せっかくなので、語っていることに合わせて、感じたことを手でちょいと書いてみる。

ピアゼットンとなっているけど、正確には「ビアゼットン」です

平尾昌宏『日本語からの哲学』

平尾昌宏『日本語からの哲学:なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか?』を夢中で読む。

前著2冊にはなかった高揚感。筆者の思考のプロセスを示していく書き方は、さながらドキュメンタリーのよう。

p263の最後の問いには(念のために第20章を幾度か読み返してから)「はい」と答えました(〈です・ます体A〉)。

「ノート5」の〈である体〉と〈です・ます体〉の混用について、まさに思い浮かべたのが小林秀雄 『私の人生観』だった。

〈である体〉で沈思黙考し、〈です・ます体〉で読者に向き合う。

ただし柳父章『日本語をどう書くか』で触れられていたとは思いもよらず、あわてて当該部分を読み返した。

ウィトゲンシュタイン入門書3冊

『論理哲学論考』に挑む前の準備体操として、3冊の入門書を読んだ。

中村昇『ウィトゲンシュタイン、最初の一歩』は、悩みを抱えがちな中高生を対象にしていて、さすがに語り口がソフト。全体像よりもキーワードからウィトゲンシュタイン の考え方を身近な具体例とともに示そうと試みる。

古田徹也『はじめてのウィトゲンシュタイン』は、3冊のなかでは最も濃い入門書。『論考』『探究』への出発点となる。鍵語である『像』を深めてもよい。

ウィトゲンシュタインいわく「文章は、正しいテンポで読むときだけ理解することができる。私の文章は、すべてゆっくり読まれるべきだ」に納得。

橋爪大三郎 『はじめての言語ゲーム』は、 ウィトゲンシュタインの生き方全般にも触れながら、後半に「言語ゲーム」の説明を厚くしている。哲学よりも社会学や社会理論への案内という色合いが濃い。本居宣長 を「言語ゲーム」で読み解くくだりは見事で、小林秀雄を思い浮かべた。

若松英輔『不滅の哲学 池田晶子』

若松英輔『不滅の哲学 池田晶子』を読む。

やはり沈黙。

言葉にならないので、無理に言葉にしない。

感じたのは、これは「池田晶子『試論』」だということ。

エセーというなら、「想に随って筆を動かす」随想録ではなく「筆に随って想が産出される」(林達夫)という「随録想」だという印象を抱いた。

よって若松さんには、試論の次は本論を期待したい。また『池田晶子の幸福論』も読んでみたい。

良い本というのは、勇気を与え、行動を促すと思う。

あらためて池田晶子の『14歳からの哲学』『14歳の君へ』『リマーク 1997-2007』『事象そのものへ!』を読もう。

そして小林秀雄。『考えるヒント』も、『新・考えるヒント』も。

武田百合子『富士日記』

武田百合子『富士日記』が好きだ。

というと、『富士日記』フリークスに叱られてしまうかもしれない。というのも、まだ全編は読んでいない。私の好きな川上弘美が選者をつとめた『精選女性随筆集 第五巻 武田百合子』で一部が収録されていて、それにのめりこんで以来のファンである。

抄録は読んだ。全編を読むならばと、状態は悪いが味わいのある初期の単行本を手元に置くことにした。副読本も取り寄せたら、『富士日記を読む』に、やはり私の好きな岡崎京子がエッセイを寄せていて、相変わらず自らの間緩さを痛く感じる。

水本アキラのように、4426日分の日記を、4426日かけて読めればよいと、気を楽にしている。

もう少し、整理。

随録想を書きはじめようとしたけれど、早々に脱落。

まず書く。それから考える。考えて、分かる。考えて分かったことを、池田晶子によれば、知識という。

もう少し、整理しよう。